Friends series(フレンズ シリーズ)2018
技法:紙版画 / 用紙:ファブリアーノ / サイズ:297×420㎜ / エディション:モノタイプ
なぜ、動物なのか。無類の動物好きかと問われれば、そこまではないのですが、例えば興味のきっかけが図鑑であれドキュメンタリーであれ、ある動物をひと目見てなぜか気になりだすと、今はインターネットなどでさらに詳しく知ることもできますから、ついついの入れ込んでしまいます。特徴的な容姿、動き方、鳴き声や生息地、何を食べているのか、どんな社会性をもっているのかなど、その動物にまつわる様々な“情報”を知るほどに、興味が尽ません。そう、尽きないというのは満たされない、ということの裏返しでもあるわけでして、どんなにその動物の“情報”を頭の中に積み上げて見ても、そもそもなぜ動物なのか、そしてなぜ描いてみたいのか、が今ひとつはっきりとしませんでした。どうしても動物を描いてみたいという作品制作への衝動だけはハッキリとあるものの、その動機がぼんやりとしていたせいで、最初はなかなか手が動かせず、悶々とした日々を過ごしておりました。そうこうしているうちに、仕入れた情報は所詮、にわか仕込み。知識として得た動物たちのプロフィールは、山間に立ち上る霧のように、徐々に自分の中からたち消え始めたのです。と、そのタイミングで唐突に、動物作品への衝動の“なぜ”つまり動機が見え出したのです。それは動物たちの“眼差し”でした。大自然の厳しさを物語る、命がけで獲物を狙うときの、矢を射るような眼差し…と言いたいところですが、実は心を掴まれたのは、それとは正反対の眼差し。つまり、動物たちの日常生活における、普段のなんということもない状態の目、いわば“無手の眼差し”だったのです。無手というのは、手に何も持たない素手のさまを言うのですが、そこから意味が転じて、狙いも方策も練らぬまま事にあたるといった、悪く言えば行き当たりばったり、よく言えば、構えのない…といった意味合いも指します。それは、うだるような暑さのなか、日陰で涼をとるライオンが、彼方にゆらぐキリマンジャロを、見るともなしに眺める眼差し。水を求めて、乾季のサバンナを黙々と歩き続ける象の群れが、すれ違う鳥を一瞥するときの、無関心が漂う眼差し。そんな瞬間を見つけると、種を越えて人にも通じる、“普通という心境”を垣間見るのです。それは条件反射のときもあれば、生理反応のときもあり、細かなことを言えば、何らかの合目的性はあるのでしょうが、あの眼差しから垣間見られるのは、動物たちが、それぞれに与えられた人生を過ごすにあたって、繰り返しの日常のなかで芽生える、“いつもの心”の存在と証明のように思えるのです。そして、僕はその瞬間を見つけると、不思議な共感と安心感を覚えていたのです。特に驚くのが、ほとんどの動物に共通する母親が子供へ向ける眼差し。北米にいるアメリカバイソンなどは、何かをめぐって争う際の眼差しは狂気そのものです。目は血走り、泡を吹きながら、巨体どうしがぶつかり合うのですから、そんなところに“動物が好きです”とお邪魔しても、友好関係は結べそうにありません。しかし、母と子が寄り添うひとときともなれば話は別です。アメリカバイソンも、母が子を見つめるその眼差しには、透明な理性と深い慈愛が宿り、今なら話しかけても大丈夫そうだ、そう思えてしまうのですから不思議です。それは電車の中で出会う、眠る我が子を見つめる、ごく身近なお母さんと同じ眼差し。これは生きとし生けるものにある摂理だと、頭で理解はしても、人間社会の城壁の内側で暮らしている身としては、野生にこれらの眼差しを見いだすと、やはりとっても得した気分になるのです。異国で同郷の人と出会ったような嬉しさで、手のひらやほっぺたが熱くなります。そして、ああ、これが描きたかったのだなぁと、ようやく腑に落ちると、いよいよ作品制作への機が熟すわけです。本や画面をパタリと閉じ、仕入れた情報は綺麗にリセット。用意した紙に、下書きをせず(つまり描写において、細かいことはこだわらず)衝動だけを頼りに、まっさらな紙から脳裏にある印象を、ハサミで一気に切り出します。そうして出来た紙の動物を版にして、一枚づつ刷り上げた素朴な動物たちは、何と言いますか…自分を含めた、周りにいる誰かと、どこか似ているから可笑しなものです。自分と同時代を生きる、互いに与えられた日常を正直に生きる、そんな眼差しを前にしてしまうと、出来た作品はどうしても“Animals”とは言えず、“Friends”となるわけですね。
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